2021年08月20日

人類を救う社会科学革命(1) 

科学技術は急速に進歩し、今や人工知能は人間を超えようとしている。一方で世界を見ると、相変わらず紛争が絶えない。国内で内戦を繰り広げたり、多国間で覇権を争ったりしている。つまり人間社会(社会システム)の方は、組織であれ地域・国であれ、何千年も前から同じ愚行を繰り返しており、全然進歩していないようにすら見える。この科学技術の急速な進歩と、遅々として進歩しない人間社会の愚かさとのギャップは、ますます広がっているようだ。なぜそんなギャップが生じるのだろうか。今回の投稿シリーズはその疑問から始まる。

科学技術と言うと、狭い意味では自然科学および自然科学に基づく技術を指すことが多い。この自然科学は比較的分かり易い。一口で言うと自然の秩序を明らかにしていく学問である。自然の秩序を支配している法則(自然法則)は何か。法則に基づいて現象を説明するため、どのような理論が構築できるか。そして自然科学の進歩とは、より根源的な法則を見つけ出すこと、より広い範囲の現象を包括的に説明できる理論体系を構築することなどであろう。さらに、自然科学に基づく技術の進歩も分かり易い。それは、進歩の評価尺度が比較的はっきりしているからかもしれない。より速く、より小さく(あるいは大きく)、より広く(あるいは多く)などなどである。

ところで科学と言うと、広い意味では人間社会を扱う社会科学も含まれる。この社会科学における科学の意味が分かりにくい。自然科学に対応させて考えてみると、社会科学は一口で言うと社会の秩序を明らかにしていく学問なのか。その場合、社会の秩序を支配している法則(社会法則)は何なのか。さらに、社会科学の進歩とは何か。そして進歩の度合いを評価する尺度は何か。疑問は尽きない。

以前、日本学術会議は「秩序原理」という概念を提唱していた。自然の秩序を支配している自然法則に対して、人間社会の秩序を支配しているのは(シンボル性)プログラムと呼んでいた。法制度等のルールなどを指すようだ。その特徴は、自然法則と違って変容も違背も起きると言っている。いずれにしてもプログラムは法則ではない。人が何らかの価値観や思いをもって恣意的に作る秩序である。そのようなプログラムに基づいて現象を説明するような理論体系を科学と呼ぶには少し無理があるような気がする。

posted by 岡本憲之 at 10:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする